筆跡鑑定人ブログ

筆跡鑑定人ブログ−27

筆跡鑑定人 根本 寛


 このコーナーに書くのは、事実に基づく、筆跡鑑定人の「独り言」 のようなものです。お気軽にお付き合いいただければ幸いです。
ただし、プライバシー保護のため固有名詞はすべて仮名にし、シチュエーションも、特定できないよう最小限の調整をしている場合がある ことことをご了解ください。


「ためしてガッテン」に出演


父親が亡くなったら借用書を持って表れた町金融

 鑑定人として難しいのは、やはり偽造筆跡の見抜きです。偽造といっても素人が思いついてやるというようなレベルでなく、プロの手口というケースです。プロとは、たとえば、「町の金貸し」というような立場で、裏の世界の人たちです。
ある自営業の社長が亡くなったら、相続者の娘さんのもとに金融業者が「お父さんに3千万貸していた。返してくれ」と借用書を持って現れた事件がありました。父親は、何回かその業者から借金をしていて、業者は父親の筆跡などを熟知していたのです。
幸い、娘さんは疑問を持って私に問い合わせをしてきて、借用書の筆跡は父親ではないことを証明して難を逃れたことがありました。
このようなケースは、ほとんどプロという立場で偽造をしているわけですから非常に巧妙です。私からいうのは何ですが、半数程度の鑑定人なら騙されてしまうのではないでしょうか。

 

多くの筆跡鑑定人は「筆跡個性」を真に理解していない

 筆跡鑑定とは、鑑定する文字から明確な「筆跡個性」を掴んで判断することですが、一般にこの「筆跡個性」の理解が十分ではありません。筆跡個性とは筆跡に表れた「書き手独自の個性」です。このことは大抵の鑑定人が観念的には理解しているのですが、具体的に何処をどのように見るのかという本質を理解していないことが多いのです。
「筆跡個性」とは、言葉を変えていえば、筆跡に表れた「一つの規則性」です。その規則性とは、実際は字体が異なっても似たような部位には同じような形で表れます。むしろ、違う字体にも表れるからこそ、規則性といえるものなのです。
たとえば、半年前に行った遺言書の鑑定では、ある鑑定人は、つぎのような「一」の文字について、「Aは終筆部が上に上がり、Bは下に下がるから別人の筆跡」としました。

 
図A
 
 

  しかし私はこの文字では「終筆部を引っ掛ける(C)から同一人の可能性がある」と真っ向から対立しました。結果は「同一人の筆跡」とした私が正解でした。この遺言者は「廃用症候群」で、椅子に座っていることもできないほどの行動の不自由な人なのです。まともに腕の動かない人の筆跡が、書くたびに上に向かったり下に向かったりするには何の不思議もないことです。一方、私の指摘した「横線の最後を引っ掛ける運筆」は、「一」の字の他にも「遺」「言」「七」「十」などにも表れていて、これは行動が不自由でも書きうる部分だとわかります。
このように、「単純な字形の相違」を、「筆者の相違」と取り違えるという素人なみの鑑定人が少なからずいるということです。
このような「筆跡個性とは一つの規則性である」という理解は、わが国の鑑定人で明確に認識している人はあまりいないでしょう。また、鑑定書に応用して裁判所に提出する鑑定人もおりません。なぜなら、裁判官にも理解してもらえないからです。
私は筆者識別の段階では活用しますが、同じ理由で鑑定書そのものにはめったに書かないようにしています。裁判官に「変ったことをいう鑑定人だ」などと思われ、依頼者の足を引っ張るようになっては大変だからです。

 

「タメシテがってん」で証明された脳の仕組み

 先日NHK総合テレビの『タメシテがってん』に鑑定人として出演しました。その番組では、文字は手が書いているのではなく、脳に蓄えたイメージに基づいて書いているのだということを証明することです。
私の役割は、偽造された文字からその痕跡を指摘して犯人を割り出し、書き手独自の「脳内文字」があることを証明するというものです。次に掲載するのが、そのときの鑑定した筆跡です。
この同じ文字が3枚あり、その中の2枚は偽造なのでそれを見破るという趣向です。1枚は簡単に見破りました。1枚は苦労させられましたが、見破ることができました。後で聞くとその難しいのは書道の先生の書いたものだということです。
書道では「臨書」といい、人の筆跡をそっくりに書く練習がありますが、その先生は、常々、「私が臨書したら絶対に見破れない」と豪語していたとのことですから、この勝負は私のほうに軍配が上ったというべきでしょう。

 
図B
図B
 

  私の提案で、有名な詩画作家の星野富弘さんを取材しました。星野さんは体育の教師であった24歳のとき、鉄棒から落下して頚椎を損傷し、首から下は全く動かせなくなった方です。
その後母親の献身的な介護を受けながら再起し、素晴らしい詩画を世に送り出し多くの人に感動を与えています。その星野さんが友達からの励ましの手紙にどうしても返事を書きたいと思い、口に筆を咥えて文字の練習をしたのです。テレビで二つの筆跡を映しましたが、その筆跡は手で書いていたものと本当にそっくりでした。
番組ではその後、京都大学グループの研究で、文字を読んだり意味を考えるのは脳の「言語野」で行われるが、字形のイメージを想起するのは、脳の別の場所であることを突き止めた例も紹介されました。当然ながら、脳のその箇所を損傷したりすると文字が書けなくなるのです。

 

脳と筆跡の研究はまだ入り口

  私はそれを見ていて、従来から主張していた「脳のイメージ理論」が証明され嬉しく思いましたが、同時に、最近鑑定した遺言書の文字に思いを馳せていました。
その遺言書は、60歳ごろの健常時の遺言書と、11年後に書いた遺言書が同一人のものであることを証明するものでした。遺言者は、その間に「肝硬変」などを罹病し、入退院を繰り返していましたが、後から書いた遺言書は、とても同一人とは思えないように変化してます。何より不思議なのは、「家」とか「産」といった漢字が思い出せなくなって奇妙な誤字を書いていることです。つぎがその例です。

図C
図C
 

  これが、「認知症」になったとか、何か脳の病気というなら分かりますが、遺族に伺ったところ、そのようなことは全く無いというのですからびっくりしたのです。
このような現実から考えてみますと、脳に字形をイメージとして蓄えている、その記憶の保持能力はどの程度のものなのだろうか……というような好奇心も沸いてきます。このような側面も今後の研究課題といえるでしょう。
このような現実に触れるたびに、今日の科学というのは本当に入り口程度しか解明できていないのだなと思います。科学は私たちに大きな貢献もしてくれていますが、人間としては、今の程度で分かったなどと驕ってはいけないなと痛感させられます。

   
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